オーストラリアは移民の国。それぞれの移民達にそれぞれのドラマがあります。
ここではロシアに焦点をあてて、旧ソ連邦移民達の歴史と生活を紹介したいと思います。
オーストラリアのロシア移民史(JIC インフォメーション第100号掲載分)オーストラリアの中のロシア(JIC インフォメーション第102号掲載分)
- 植民地時代(1880年以前)
- ロシア帝政末期(1880年〜1916年)
- ロシア革命(1917年〜1920年)
- 2つの世界大戦(1920年〜1950年)
- 旧満州からの白系ロシア人(1950年〜1960年)
- 雪解け以降(1970年代〜)
主な資料入手先:豪州移民局、メルボルン移民博物館
本文は1999年から2000年にかけてJIC国際親善交流センター(現JIC旅行センター)の関西版季刊誌「JICインフォメーション」に掲載されたものをWeb用に若干改訂したものです。
オーストラリアのロシア移民史
植民地時代(1880年以前)
19世紀前半、西洋人入植初期時代から早くもこの地に多くのロシア人が確固たる痕跡を残していたという事実に驚かれる方もいるに違いない。1800年前半、ロシア帆船はシドニー湾近辺のジャクソン港にたびたび寄港していた。1820年には有名なベーリングシャウゼン船長率いるロシアの南極探検隊がここに駐屯し、ニュー・サウス・ウェールズ州の海岸部とタスマニアを詳しく調査している。この頃、当地ではロシア船はいつも歓待されていた。ロシア船の数があまりにも増えたのでKirribilli Pointと名付けられたロシア船専用係留地が設けられたほどである。(ちなみにこの地は現在では豪首相のシドニー官邸がある一等地である。)
また、囚人としてこの地を訪れたロシア人もいたようである。1823年、タスマニアのホバートに寄港したロシア船は現地の流刑者の中にロシア語を話すグループを発見したという報告を残している。このうちの一人は以前はロシアの将軍であったが、英国にて逮捕されタスマニアに移送されたと語ったそうである。
さて、英国とロシアが敵対関係となったクリミア戦争(1853年−1856年)が勃発すると、オーストラリアはロシアの南下政策に過敏な反応を示した。「ロシア人がやってくる」といった侵略に対する恐怖から主要な港に要塞が築かれ、オーストラリアに居住するロシア人は一時隔離されたりした。当時の要塞はニュー・サウス・ウェールズ州、ビクトリア州、タスマニア州に数カ所現存している。
実際はこれは杞憂に終わり、その後も少数のロシア人がオーストラリアを訪れたに過ぎなかった。そのうちの一人に世界的に著名な人類学者であったミクルーハ・マッケイがいた。当時のニュー・サウス・ウェールズ州知事の娘と結婚したミクルーハ・マッケイはジャクソン港の一角に生物学ステーションを設置し、現在はニコライ・ミクルーハ・マッケイ記念館として残されている。
1893年にロシアとオーストラリア間の公的な外交関係が出来たとき、初代領事として赴任したアレクセイ・プチャータは自分が到着した当時のメルボルンには既に3000人を越えるロシア人が居住していたとサンクト・ペテルブルグに報告している。多くは貿易商、商人、船員などで、ユダヤ系ロシア人や兵役を逃れて来た者もいたという。
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ロシア帝政末期(1880年〜1916年)
ロシア帝政時代は、その圧制に苦しむ者、とりわけユダヤ系の移民がオーストラリアに渡ってきた。ユダヤ人虐待(ポグロム)を支持していたアレクサンドル2世が1882年に暗殺された後、ユダヤ人を罪人扱いとしたポグロムの数はますます増加し、ロシア帝国から大量のユダヤ人流出を招いた。ロシア帝国から流出したユダヤ人は大半がパレスチナ、米国へ移住したが、英国やオーストラリアに移住した者も多くいた。オーストラリアにおける1901年のロシア(当時ウクライナ、グルジア等も含む)出生者の人口は3,400人で、このうち8割が男性であった。
1900年から第一次世界大戦までの間にオーストラリアを訪れたロシア人の多くは脱走兵、ラーゲリ脱走囚、革命家、その他の反帝国主義者などロシア帝国の圧政から一時避難してきた者であった。その多くがインテリゲンチャで活発な政治活動をしていた。シベリア鉄道と中国の鉄道を使いアジアの港から安い航路を利用する上で、地理的に近いオーストラリアは格好の逃亡地であった。これら避難民のほとんどは入国審査がいい加減なことで知られていたブリスベンから入国しその後各地へ移動したが、ブリスベンのあるクイーンズランド州は約40年間ロシア人口の一番多い州であり続けた。
1910年には初のロシア人労働組合が組織されブリスベンを主な拠点とした。この組合は組合員専用の図書館を有し、知的・政治的討論の場を設け、ロシアの文化活動に力をいれた。一方、数々のストライキ参加や第一次世界大戦時の徴兵反対運動等でも有名で1916年には反戦運動のかどで組合が発行していた新聞が発禁処分となる憂き目にもあっている。
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ロシア革命(1917年〜1920年)
1917年の3月革命後には多くのロシア人が帰国した。当時のケレンスキ暫定政権はオーストラリアに護送船を送り、500人に上るロシア人を祖国へ送還したという。しかし同年、今度はボリシェビキによる10月革命が起こり、ロシアが第一次世界大戦から手を引くに至ってオーストラリア政権は在豪ロシア人の帰国を禁じる措置をとった。ボリシェビキとそのシンパに対する更なる規制措置がとられ、1914年施行の戦争予防法が赤旗掲揚規制のために利用されると、これに反発した在豪ボリシェビキは、後に「赤旗暴動」として知られるロシア移民史上最も悪名高い事件を引き起こした。1919年3月23日、ブリスベンにて約100人のロシア人が法に逆らって堂々と赤旗を振りながらデモ行進をし、その反対者との間で一連のもみ合い騒ぎを起こした。その夜、このデモに対する反対派がロシアクラブ前に集結し反対デモを行ったところ、建物内部から発砲を受けたため暴動に火がついた。翌朝のクイーンズランド州の新聞が「ボリシェビキ、クイーンズランドに来たる」という見出しで伝えたニュースは反ボリシェビキ派の感情をますます煽る結果となり、警察が出動したものの暴力は収まらず暴徒達がロシア人の家宅と見なした家を襲うなどして19人が負傷する惨事となった。後に最初のデモの首謀者とされる8人が逮捕され、国外追放処分となっている。
同時期、ボリシェビキ革命によりロシア人達はオーストラリアの左翼グループから一目置かれピョートル・シモーノフというロシア人の努力でオーストラリアに初の共産党が設立されている。彼と仲間のボリシェビキ達はロシア政府の後ろ盾で最終的には帰国したが、多くはその後の内戦、あるいはスターリンの粛正により悲運の最期を遂げた。
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2つの世界大戦(1920年〜1950年)
さて、第一次世界大戦から第二次世界大戦後までのロシアからの移民のほとんどはいわゆる「白系」ロシア人であった。多くの旧白軍部隊がオーストラリアに移住し、時には連隊旗を掲げて入国する者もいた。オーストラリアへは1920年から1940年までの20年間に約4,700人の白系ロシア人が到着した。特に1930年代には満州からの移民が多かった。
大恐慌時代にはどの国の移民もその多くが移民先の経済の最底辺で大変困難な時期を過ごした。オーストラリアのロシア人移民は工場で働く者や集団で辺地を移動しながら綿つみやサトウキビ刈りなどの季節労働者として働く者が多かった。クィーンズランド州では酪農、綿花栽培、花栽培、野菜栽培、はてはパイナップル栽培に従事する者までいたという。
1923年にはブリスベンにてロシア正教会の初の礼拝が行われ、1935年にはオーストラリア初のロシア正教会教会が建立された。以後1986年までにオーストラリア各地で24の正教会教会が建立された。第二次世界大戦以前はシドニーにも大きなロシアコミュニティーが存在していたとはいえ、ロシア人移民のほとんどはブリスベンに住んでいた。芸術家、俳優、音楽家、バレエダンサー、建築家などがコミュニティーを作って芸術活動を行い、その後のオーストラリアの芸術・文化に多大な貢献をした。
第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間のロシア人コミュニティーはイデオロギーの違いにより分裂していたが、第二次世界大戦でロシアがドイツの侵攻を受けた時はそれぞれのロシアコミュニテイは祖国のために協力し合って羊皮や兵隊をロシアへ送り込んだ。この時期、実に2,600人に上るロシア系移民がオーストラリアを去っている。
戦後は祖国を失った多くの「戦争流民」が生まれ故郷へ帰るよりも他国へ移民する道を選んだ。オーストラリアにおける終戦までのロシア出生者人口は約5,000人であったが、戦争直後には多くの「戦争流民」がオーストラリアに移民し1954年までにロシア出生者の人口は一気に13,000人に増加した。多くは戦時中ドイツの囚人キャンプで強制労働についていたが、終戦後ドイツから直接オーストラリアへ移った者達である。ただし、多くのロシア人はソ連邦へ送還されることを恐れてロシア名を名乗らなかったので実際のロシア系移民者の正確な数字はつかめていない。これはウクライナ人に関しても同様である。
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旧満州からの白系ロシア人(1950年〜1960年)
1950年代はオーストラリアでも反共産主義の政治的風潮のもとロシア人に対する風当たりは必ずしも好ましいものではなく、ロシアコミュニテイーへ参加して活発に活動するロシア人も多くはなかった。
このような時代背景の中、今度は旧満州を中心とした新生中国から新たに7,000人の「白系」ロシア人がオーストラリアへ移住した。亡命白系ロシア人は中国共産党が政権を握った直後の1949年と1950年前半にその第一陣が上海から、続いて1950年代後半には残りの大多数がハルビンを中心とした旧満州から香港経由で入国し、約半数がシドニーに移住した。
中国政府は金銭その他の貴重品を国外に持ち出す事を禁じた為、多くの移民達は着の身着のままに近い状態で中国を出国し、一時滞留地の香港にて旅費を工面し、非常に困難な旅の末オーストラリアに到着したのだった。彼らのほとんどは、専門職業を持った知識人で、またマルチリンガルでもあった。
この中には「偉大なる王(ベリーキー・ワン)」の著者として当時日本でも人気のあった作家ニコライ・バイコフも含まれていた。香港で貧困状態にあり旅費の調達もままならなかったバイコフの所在がある日本人により確認され、彼との連絡が取れずに滞納となっていた日本の出版社からの印税が後日届けられたことにより、それを旅費としてバイコフ一家は晴れてオーストラリアの地を踏む事になったのであった。しかしながら、既に年老いて体力も弱っていたバイコフは翌年ブリスベンにて他界した。
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雪解け以降(1970年代〜)
1972年の米国ニクソン大統領の訪ソをきっかけとしてソ連邦からのユダヤ系の出国規制が比較的緩和されたことにより、70年代後半にはユダヤ系のソ連邦出国が顕著となった。その多くは米国、英国へ移住したが、オーストラリアへも数千人が移住し、主にシドニーとメルボルンに移り住んだ。彼らの多くが高等技術を有し専門職業に従事する者であった。1981年にはロシア(ソ連邦)を出生国とする人口は17,000人を数えるに至った。
その後、ペレストロイカ以降、(旧)ソ連邦からの移民者は爆発的に増え、1993年にその数はピークに達した。この年、旧ソ連邦出身の移民数は実に21,000人に達し、1991年の17,900人から17%も増加した。1993年の旧ソ連邦出生移民人口の約25%が過去5年以内に到着した新参者であった。彼らの多くはシドニーのあるニュー・サウス・ウェールズ州あるいはメルボルンのあるビクトリア州の都市部に移り住んだ。現在ではロシア系人口の80%がこの2州に集中している。
ペレストロイカ以前に移民してきたロシア人達はイデオロギーや宗教ごとに分かれながらも相互扶助のコミュニティーを築きあげてきた。コミュニティーメンバーの世代が老齢化するにつれ、その活動目的も若い世代への言語や文化教育、高齢者向け養護施設の建設などへと変化してきている。それぞれのコミュニティーはその時代時代に不遇な新規移民の支援活動なども行ってきたが、ソ連邦崩壊後に押し寄せてきた新規移民の波を受け入れることは彼らとの接点を見いだせないコミュニティーにとっては至難の業であろう。既存のロシア人コミュニティーは代々受け継いできた物を失うことなく再活性化するために克服しなければならない多くの課題を抱えている。このような背景を考慮しながら次章はロシア人移民の現在の暮らしぶりに焦点を当ててみたい。
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オーストラリアの中のロシア
オーストラリアでは多文化主義政策(マルチカルチュラリズム)に基づき、自国の経済・文化発展に貢献する移民をここ数年、年間平均約80,000人程度(難民枠約10,000人を含む)を受け入れている。ペレストロイカ以降1993年をピークとして旧ソ連邦からも多くの移民がオーストラリアの地を踏んだ。この大多数はシドニー或いはメルボルンに住んでいる。ここでは筆者の在住しているメルボルンを例に現在の彼らの暮らしぶりをオーストラリアの移民制度とあわせて探ってみたい。
オーストラリアのマルチカルチュラリズム
オーストラリアにおけるマルチカルチュラリズムとは各民族の文化を一つの文化に融合させるのではなく、それぞれの文化の持つ多様性を受け入れ活かすことによりオーストラリア全体としての文化を豊かにするという「スープより五目煮」の発想から各民族の文化や言語を肯定し尊重し合う政策をいい、その一環としてテレビやラジオなどの多言語放送、各種公共サービスの多言語案内などが行われている。
オーストラリアへの最近の移民者の内訳をみると英語使用者が約3分の1で残りの約3分の2が通訳・翻訳を必要とする者となっている。非英語圏出身者のうち3割を占めるのが中国と旧ユーゴスラビアの言語使用者であり、半数が8つの言語、すなわち広東語、ヴェトナム語、アラビア語、北京語、ロシア語、セルビア語、ボスニア語、クロアチア語の使用者で占められる。この8つの言語使用者に対しては政府機関での通訳・翻訳サービスの他、各種広報パンフレットから運転免許試験、選挙案内まで全て自国語で受けられるようになっている。ロシア語の場合、テレビではСегодняやИтогиがテレビで半日遅れで放映される他、時折ロシア映画等も吹き替えなしで放映され、またラジオではロシア語による番組が週6日放送されており、英語が話せなくても情報の収集に悩む心配はないようだ。
実際移民達、特に年配者の中には、何年経っても英語を話さず自国民のグループの中で生活している者もいるが、多くの非英語圏出身移民は、510時間まで無料で受けられる移民向け英語教育等を利用して英語を身につけオーストラリアでの新たな生活の第一歩を踏み出すようだ。
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オーストラリアでの新しい生活
上記の英語教育機関には筆者も1998年から1999年にかけての1年余りお世話になった。この移民向けのクラスは英語の習熟度にあわせて4つのレベルがあり、1クラスは大体20-25名ほどの生徒からなる。内訳は筆者の在籍したどのクラスもだいたい3分の1が旧ソ連邦出身者、3分の1が中国系、残りがユーゴスラビアやヴェトナムなどその他の国出身者であった。
旧ソ連邦出身の移民は概して教育水準が高く、母国では専門職業に就いていた者が多い。特にコンピュータープログラマーが多く、大げさではあると思うが二人に一人といわれるほどである。筆者のクラスでも海洋学者、エンジニア、ピアニスト、大学教員など専門職業に就いていた者が圧倒的に多かった。しかしながら、母国での経験をすぐに活かすことができる幸運な者はごくわずかである。
多くの者はまず、一定水準の英語力を身につけるのに数年費やし、更に旧ソ連邦で取得した資格のほとんどは互換性がないのでオーストラリアの教育機関で「ブリッジング(橋渡し)教育」といわれる資格の取り直しに数年費やすことになる。実際このように長い年月をかけた末オーストラリアの研究機関に職を得たロシア人女性が移民の成功例として新聞記事にでていたが、若くはない移民にとっては途中で焦りも生じるだろうし、特に扶養家族を抱える者にとっては生活の糧となる職を出来るだけ早く得たいと思うのが正直な感想だろう。しかし、残念ながらオーストラリアではロシア語の需要は非常に少ないので早く仕事を見つけるには英語の習得をまず優先し、技術系以外の者は職業の選り好みもしていられない。
ウクライナの大学で経済学の助教授をしていたという女性が英語クラスの斡旋によるボランティア・ワークを通して旅行代理店に突然仕事が決まり嬉々としてクラスを去っていった時にはクラスの優等生であった彼女の「成功」を喜びながらも、一からやり直さなければならない厳しい現実に複雑な思いがしたものである。
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ロシア系移民の印象
さて、ロシア系移民に対する一般オーストラリア人の印象はどのようなものであろうか。一般的に言えば、ロシアからの移民はどの時代をみても、高学歴で専門技術をもっているものが多く、オーストラリアの経済、技術、芸術文化の発展に大きく寄与しており、概ね好意的に受け止められているものと思われる。また、戦後1950年から60年代に大量に流入してきたギリシャ・イタリアを主とする南欧系移民、あるいはここ10年ほどに大量に押し寄せてきたアジア系移民との人口比でみても、アングロサクソン系オーストラリア人に一種の「脅威」を抱かせる程の存在とはなっておらず、目立った摩擦もない。しかしながら一部の人達からは多少気になる話も耳にする。
ロシア系移民が半分以上住んでいるユニットに住むオーストラリア人女性の同僚は、隣人に対する印象として「ロシア人同志で固まって打ち解けてこない」「アンフレンドリー」「夜遅くに車を急発進させたり、車のトランクを乱暴に閉める、等うるさいので注意したいがこわくてできない」等と語った。
また、移民向けの政府系英語教育機関で働いた経験を持つ英語教師の話によると、こちらの英語教師の間では「クラスの中で一番扱いに苦慮するのはロシア人生徒である」という共通認識が少なからず出来ているようである。その主な理由としては「教師の話を聞かずに授業中にロシア語でしゃべり出す」「人種差別的傾向、特にアジア系生徒を侮蔑する傾向が強い」などである。
筆者の経験と照らし合わせてみても当たらずも遠からずといえる。授業中に自国語で話し出すのは中国系も多かったがクラス内に常に3人以上ロシア語使用者が集まる現状を考えれば自制がきかなくなるというのはわからなくもない。ロシア語使用者の授業方針に対する不満も他国出身者に比べると顕著で「効率が悪い」、「教材が面白くない」、「アボリジニ差別の歴史は習いたくない」だの仲間内でロシア語で言う場合も公に英語で言う場合もあった。授業を時間の無駄と見ると、協調性は二の次で自己主張を始めたりロシア語で私語を始めるのは知識欲の裏返しだとしても教師にとっては確かに扱いにくいことだろう。アジア系生徒に対する差別的態度については特に神経質になるほどのことはなかったが「中国やベトナム訛りの英語は本当にわかりづらくって困るけどあんたの英語はわかる」とロシア語訛りを棚にあげてほめられた(?)時には面食らった。
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メルボルンのロシア街−バラクラバ
メルボルン都市部近郊のGlen Eira市は旧ソ連邦出身者が集中して居住している地区である。市内のバラクラバ通りにはロシア語の看板もあり、そこかしこからロシア語が聞こえてきてちょっとしたロシア人街といった趣である。
この地域の売店ではイタリア語やギリシャ語の新聞の他に「論拠と事実」や「モスクワ・ニュース」、そしてオーストラリアで発行されているロシア語の週刊タブロイド誌「Горизонт」(A$2.50)などを購入することが出来る。黒パンやトブァローク等を扱っているデリカテッセン、詩の朗読やロシア人ロックバンドの演奏などの催しを毎月行っている文学カフェ、メルボルンに20軒ほどあるといわれているロシアレストランなどもこの地域に集中している。
また、一般のオーストラリア人にはほとんど知られていないが、「Горизонт」の広告欄を見ると移民申請代理、レンタルビデオ(或いは本、テープ)、化粧品販売、美容クリニック、衛生テレビ、ケータリング・サービス、自動車の販売・修繕、ロシア語劇などロシア語使用者に的を絞ったビジネスが多く存在することがわかる。生バンドにダンスホールを備えた本格的ロシアレストラン「アストリア」(コーヒー1杯15ドルもするそうである)など日本人向けのカラオケバーと同じような排他性を持った店も少なくないようである。
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ロシア・コミュニティーとは?
上記を考えると、ロシア人達はオーストラリアでもロシア的な生活を維持して統一したコミュニティーの中で暮らしていると判断しがちであるが、彼らをひとまとめにして論じることには大きな誤りがある。
ペレストロイカ以前の移民はその多くが祖国での境遇や入植理由を共有し、愛国心が強く現在15万人の会員を有する全豪規模のコミュニティーを組織し様々な文化活動や相互扶助活動を行ってきた。このようなコミュニティーは従来からロシア移民の代弁者として公的な役割を果たしているようであるが、実際の移民全体からみればごく一部のグループの代表に過ぎない。
ペレストロイカ以降の移民者は個人的な理由で入植してきた者が多く、移民同士を団結させる共通点あるいは愛国心を持っているとは言い難く、積極的に旧来のコミュニティーと接触することは稀なようである。旧ソ連邦からの移民達は生活の便宜のために同じ地域に住んでいるとはいえ、移住した時代、出身地、民族、宗教或いはイデオロギーによる隔たりを越えて互いに交流を深めるよりも、お互い無関心を装い、時には反目し合う場合さえあるようだ。
彼らの横のつながりの薄さ、或いは個人主義的傾向は、ロシア語使用者の圧倒的多数が通訳・翻訳の公共サービスを利用するという豪州移民局の統計結果からもうかがうことができ、家族や友人に頼る傾向が強いアジア系移民とは対照的である。彼らは初めのうちはオーストラリアに移住する際に頼ってきたつてや、日本の県人会のような同郷人同士の集まりなどを通して知り合った気の合う仲間同士で群れ合っているものの、英語が話せるようになりオーストラリアの生活に馴染むにつれ、一人立ちしていく者も少なくない。
筆者の職場で働くウクライナ出身のアレックスもその一人である。10年前に19才の時にウクライナから移住してメルボルンで大学に入り直した彼の周辺には現在ほとんど旧ソ連邦出身の友人はおらず、姉との会話にも英語を使い、今さら下手になったロシア語でロシア人と話すのは気恥ずかしいとさえ言っている。
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マイノリティーがマジョリティー
まず、そもそもバラクラバ地域に住んでいるロシア語使用者のいったいどれほどを「ロシア人」と呼ぶことができるのだろうか?
バラクラバ地区はもともとメルボルン一のユダヤ人街であり、非英語圏出身者比率の最も高い地域の一つであった。それが、近年旧ソ連邦や東欧出身のユダヤ系移民が急増したためユダヤ教の儀式をロシア語で行うほどのロシア化が進んだ。市の図書館にはロシア語書物やビデオが増え、ロシア語使用者のためのサービス等が充実するにつれ、この地域周辺に居住するロシア語人口は更に拡大した。
しかし、ここでは「ロシア共和国出身のロシア民族」が祖国に比例して多いとは限らない。歴史的にみてもウクライナ人移民やラトビア人移民に比べてロシア人移民が規模の上で勝っているということもない。実際、豪州移民局の1997-1998年の統計資料をみても市民権を取得した旧ソ連邦出身者のうち最も多いのはウクライナ国籍者であり、次にソ連邦国籍者として申請した者が続き、ロシア国籍者は3番目となっている。この国籍別人数は申請国別人数とは一致していないので第三国で申請した者(例えば中央アジア諸国で申請したロシア国籍者やイスラエルで申請したウクライナ国籍者など)が少なくないことがわかる。筆者の周辺でもロシア出身者よりウクライナ出身者に会う機会が多く、過半数がユダヤ系であった。
こうしてみると一般オーストラリア人が安易に「ロシア人」と総称している人の多くは実はロシア語を一般に使用しているとはいえ「ロシア共和国出身のロシア民族」という範疇からはみ出した人達が主な構成員となっていることに気づかされる。そしてまた彼らの共通点を探し出して「これがロシア移民の典型だ」と括ることの愚かさを感じざるを得ない。
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